2007-09-16

2007-09-16:障害者運動

2007-09-16:障害者運動

Guest:茂野俊哉

はじめに:

中村さんから僕に与えられたタイトルは「障害者運動について」でした。この20年から30年の間に、障害者にとっての 社会の状況や人の考え方、障害者の生き方がものすごく変わったんだ、ということを語ることにします。日本で、世界で、障害者をとりまく状況が短い間に変わっていったという歴史を知ることが重要だと思います。

僕は介護を通じて障害者との関係を始めました。例えば、今、僕たちは自立支援法を問題にしていますが、そもそもホームヘルパーという形で介護を職業とする人が存在すること自体が、ほんの最近始まったばかりだし、それは本当に短い歴史の中から誕生したんだということを伝えておく必要があると、僕は考えています。

また、この話を通じたキーワードとして、「障害は個人にではなく社会にある」ということばを与えておきます。
いきなりそう言われると、ある種のスローガンとか、嫌味な禅問答のように聞こえるかもしれません。「そんなわけないじゃん。」と。少なくとも僕はそうでした。はじめはそのように、実体のないことばに聞こえるかもしれません
が、これは繰り返し語っていくつもりですから覚えておいてください。そのうち、ああそういうことなんだ、と思えるようになるでしょう。

この国に生まれたるの不幸-60年代:僕が生まれ育った時代の障害についての考え方


僕は1960年生まれです。61年には島田療育園が誕生します。66年にはコロニー懇談会が発足し、全国にコロニー建設が進みました。それは障害者を、ほかの人たちが暮らす街から遠いところに隔離収容するものでした。そのころの障害者のための運動、とは、実際には障害者本人のためではなく、障害者をかかえてしまった家族の救済のため、そしてそれを社会の利益とする行政の意思のもとにあったと思います。障害者は「かわいそうな人」であり、分離され、専門家によって管理されるのがよいこととされ、わずかに障害を「克服」するように努力し成功した一部の人々だけを尊敬し社会に受け入れることがおこなわれてきました。そのような社会の中で僕は育ってきました。

70年代:障害者本人の自己決定を求める闘いの始まり


70年代に入って、青い芝の会、全国障害者解放運動連絡会議などの結成と、障害を理由に社会から差別され隔離されてきた人たちからの闘いが始められていました。しかし、当時中学から高校に進んでゆく僕には、そうした闘いとも出会う機会はありませんでした。

80年代:介護を通しての障害者との出会い


僕が故郷を離れて仙台の大学に通うようになった時期、81年、障害者インターナショナル(DPI)が結成されました。それは施設・親・専門の支配と管理を拒否し、障害者自身の自己決定権を明確にうたう運動の進展の時期でもありました。
僕が大学に入学して2年目、大学のサークルの自治会役員になりました。このサークルの自治会は、役員全員が、地域で24時間の介護を使いながら自立生活をする障害者活動家の介護のローテーションに参加することになっていました。以降、僕は介護を通して、障害者運動の中を生きる障害者との関係を作ったのです。とりわけ、脳性まひで人生の大半を施設で暮らし、やがて運動の中で24時間介護を伴う自立生活をはじめていったKさんと僕たちの関係は濃密なものになりました。
当時、介護は運動の支援であり、また障害者差別と向き合う教育でもあり、同志の義務でもあったと思います。したがって、僕たちは無償で介護をしていたのですが、ボランティアという呼ばれ方をも拒否していました。
そうしたあり方は、確かに僕らの学習の機会としては重要ではありましたが、自立生活を支える安定した介護体制を持続するためには非常に厳しいものでした。初期の体制を支えた仲間は労働者となり、ローテーションの非常に限られた部分しか埋めることができなくなります。ローテーションの大半を担当する学生部隊は、各大学・サークルで毎年の勧誘を総力でおこないますが、縮小傾向は否めません。しだいに一部の学生介護者は、穴のあいたローテーションをふさぐために2日も3日も連続介護をし続けるようになり、授業にも出なくなり、留年から中退、アルバイトをしながらの介護生活をする者もでてくるようになりました。
そうした体制が続く中、Kさん本人も、日中の活動で必要な精神的高揚感と、家に帰ってからは明日の介護のあてもついていないという夜の不安の落差の中で、精神的にも肉体的にも疲弊してゆきました。介護者にとっては、交代のめどがつかない状態を共有するしんどさと、また本人がストレスの発散をアルコールに求めた結果、身近にいる健常者代表として糾弾され続けたり、またパチンコに走って生活費を使い込む現場にまで一緒にいなければならないという状況にもなってゆきました。

そんな状況の中、僕がつとめていた職場の書店が経営不振になり、希望退職に応じたものの、地元では就職先がみつからず、87年、僕は東京へ出てくることになりました。そんな状況で介護者が一人減ることは致命的だと周囲は反対したにもかかわらず、彼は、東京で頑張って障害者運動をしろと言いました。そして僕が東京に出て何年もしないうちに、彼は亡くなりました。

90年代:新しい当事者運動の流れとの出会い


実はそのころすでに東京では、新しい当事者運動の流れが始まっていました。88年には八王子ヒューマンケア協会発足と中西正司さんを中心とした自立生活センター運動が本格化し、一方では公的介護保障要求者組合が発足し、高橋修さんを中心とした行政闘争が、重度障害者の24時間介護を公的に保障させる画期的な成果を勝ち取りつつありました。

大田福祉工場で学んだこと


僕は92年に大田福祉工場で働くようになります。僕はこの社会でもっとも多く障害者と接する機会の多い「養護学校」と「施設」という存在を避けて歩いてきました。それは大学の時に出会った運動の性質上そうなったともいえます。関係を持っていた障害者は、常に活動家だったわけです。職場としてお世話になった大田福祉工場で、初めて活動家ではない、また日常生活で介護者を必要としていない障害者とのつきあいを持つようになったのです。ここで僕は、健常者から障害者になった人たちの多様な生き方と物の見方を実感し、また例えば、障害者も他の障害者を差別するというあたりまえの事実を受け容れるようになりました。「おまえら健常者は」と健常者社会の代表として糾弾され続けることもない中で、また別の発見をしてゆくことになりました。

「障害者という人」は、いない


いきなり変な言い方かもしれませんが、現実にいるのは、さまざまに違ったニーズを持った個人です。多分名刺の肩書きにも普通入れないと思います。僕の経験では、自分が何のたれべえであると名乗る以前に障害者です、と言いたい人は、非常に少ないと思います。ところが、障害をもって差別されてきた人たちが、その痛みや怒りと共に健常者に接するときは、まず自分は障害者であると名乗るのです。だから、僕が大学の頃につきあってきた人は、24時間のうちの大半で「障害者という人」をやらざるを得ませんでした。その人が名前や紹介すべき他の要素より先に障害者であると名乗らなければならない状況や関係はもともと問題をかかえていると考えるべきです。

障害と認定


また、どうしようもない側面として、他者に認定されて初めて「障害」たりえるということがあります。自分の苦しみは変わらなくても、それが障害として他者に認定されて初めて、公の救済の対象になるし、仮に具体的な公的救済が得られなくても、自分の苦しみに対する周囲の理解が変わる、ということになります。この「認定」という問題を意識することはとても重要だと思います。僕もナルコレプシーという病気で通常の就労が困難になったのですが、この病名がつくまでは周囲の理解は得られませんでした。もちろん、病名がついてからも仮病という言われ方を親しい関係の仲間からもされ続けました。医師の診断書や手帳取得というものによってしか理解や許容が得られないという、認定の必要性の本質的に残念な側面は、頭の片隅においておいてほしいと思います。

交通アクセス行動への参加:誤った要求の克服


大田福祉工場で、僕は大嫌いだった労働組合の役員になりました。そして、労働組合福祉部の活動として、交通問題と住宅問題の二つに関わることになりました。とくに交通アクセス運動では先にあげた中西さんや高橋さんと出会うことになります。余談ですが、彼らがこの大田福祉工場に在籍していた時期があることもこの時、知りました。
当時勢いのあった組合福祉部は、独自に地域の課題としてJR蒲田駅へのエレベーター設置交渉などもおこなうようになっていました。その時明らかになってきたことは、障害者個々人は障害の違いを十分に認識していない(自分の障害だけしか理解していない)が、それを障害者全体の立場として代弁してしまうことがしばしばあることです。そして、その結果誤った要求運動も存在し、ちぐはぐな獲得成果がときに足の引っ張り合いをしているという現実も知りました。

大田IKJの発足と伊沢博さん


やがて、大田区で障害者運動の共同組織を立ち上げようという誘いがあり、やがて大田障害者連絡会が発足しますが、その準備会議の中で、川崎で自立生活センターを立ち上げ、蒲田へ自宅と事務所をかまえて本格的に大田に引っ越してくるという伊沢博さんと出会いました。この伊沢さんの介護(介助)に誘われ、入ったことで、また大きな発見がありました。
何よりCILの、自立生活手段獲得の手法の成熟した体系に驚きました。
ピアカウンセリングと自立生活プログラムで障害者自らの生活マネジメント能力を引き出し高める。求人広告で介護者を募集し、集まった介護者と、障害者本人に研修を施したり、必要な行政の助成を引き出す交渉のサポートをする。今までの介護者会議型の自立生活体系とは全く違う質を感じました。
この自立生活センターの運動については、今後別の人にもっと詳しく語ってもらう計画なので、ここで多くは話しません。一言で言えば、「権利をかちとり、その課程で自らも成長する社会的関係主体としての障害者」という、ひとつの理想を体現しているのかな、と思っています。

その後伊沢さんは亡くなってしまい、大田IKJもCILとしての活動が休止した状況ですが、自立生活センターを中心とした障害当事者の運動は、今後も障害を通じて社会を変えてゆく運動のメインストリームであり続けると、僕は観ています。

相互理解、相互交流をしていこう


こうした道を歩いてきた僕は、今2つのことを中心に考えています。
ひとつは、いろいろな立場の人たちの相互理解・相互学習のなかで、障害は人にあるのではなく、社会にあるのだということを実感できる関係性を作っていこう、ということです。
もうひとつは、介護の力を使いながら生きて行く人たちの、過去の悔しさや無念さといったものの上に勝ち取ってきた基本的な権利を後退させない、ということです。
偶然や必然の出会い、いろいろあるでしょうが、そうしたものの中から、豊かな関係性を作っていきたいなと思っています。






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